アン・タブチのブログ

色々と現状を変えたいと思っているひとです

便所飯の何が悪いの?皆さんは便所飯したことがありますか?

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みなさん便所飯したことがありますか?
私はしたことがあります!!

 

若かりし10代のころのことです。
久々にそのころのことを思い出したので、記事にしてみました。

 

便所飯とは?

まず便所飯について説明します。
便所飯というのは便所でご飯を食べる行為のことをいいます。

 

「なんでわざわざ、臭い便所で飯を食うのさ?」

 

と思った方は、これまで人間関係で苦労されることなく生きてきた方ですね。

 

ある人によっては、

便所で飯を食う>普通に飯を食う

という状況があるのです。

 

たとえば、

  • 学校の教室で友達がいなくて、一人ぼっちでご飯を食べるのがいや。
  • 職場で孤立していて、一人ぼっちでご飯を食べるのがいや。

 

そんな人にとっては、トイレは個室であり落ち着いてご飯を食べられるところなのです。

 

トイレの個室でご飯を食べるという行為をしたことがある人は、それなりの数いるはずです。

 

便所飯した理由

私が便所飯した理由は…今となってはおぼろげにしか覚えていないのですが、やはり友人関係だったと思います。


クラス替えで友人がいなくて孤立してしまったことがあります。本当にそのときの1年(か2年)は最悪でした。

 

黒歴史ですよ。まったく。

 

そんな状況に限って、昼ごはんは自由に席を選んでたべることになっていました。
みんなでグループになっているのに、自分だけボッチなわけですよ。

 

ただ幸いなことに、そのころは給食じゃなくてお弁当だったのです。
給食の場合、教室内で食べなければいけませんが、弁当の場合うまくごまかすことができました。

 

そうです。弁当でこっそり食べればよかったのです。
そうして私は、弁当をトイレで食べるようになりました。

 

そのときの気持ち

便所で飯を食っているときの気持ちは複雑でしたね。

まず、“すごく落ち着く気持ち”。


そのころから若干の対人恐怖症を抱えていた自分は、トイレの個室が本当に落ち着きました。

 

今思うと、学校での集団生活がストレスだったのだと思います。

 

そしてもうひとつは、“すごく申し訳ない気持ち”でした。

 

上述したとおり、そのころは家からお弁当を持参していました。
その弁当は、母親が作ってくれたものです。

 

その弁当をトイレで食べながら思ったものでした。

 

「母さんは、自分の息子が便所で弁当を食っているなんて、思いもしないんだろうなあ。」と。

 

そう思うと、便所飯がすごく情けなくて、悪いことをしているような罪悪感が襲ってきたのです。

 

そんな複雑な気持ちで、トイレで人知れず涙を流したこともありました。

 

若かった

社会人のように外出して昼ごはんを食べるような状況であれば、ぼっちを気にする必要がありません。


しかし、そのころは中学生で弁当で、逃れるすべはありませんでした。

 

今となっては、ひとりで食べる「ぼっち飯」が恥ずかしいとも思いません。
むしろいまやぼっち飯がほとんどです。

 

でもそのころは、本当にひとりぼっちのご飯が嫌でした。
周りは大して何も思っていなかったんだろうと思いますが、

 

「あいつ一人で飯食ってるぜ。さみしー」

 

って思われるのが嫌で嫌でたまらなかったのです。
若かったなって思います。

 

便所で飯を食えばいいさ

たぶん今も、日本のどこかで便所で飯を食っている人がいるかもしれません。

 

そんな人に言いたいのは、

「便所で飯を食えばいいさ」ということです。

 

いろんな理由があって便所にこもってご飯を食べているんだと思います。
それはそれでいいんじゃないかと思います。

 

  • 食べる前にちゃんと手を洗って衛生面に気をつける。
  • ほかの人の迷惑にならないように、長時間の占有を避ける。

 

これさえ守って他人に迷惑をかけなければ、便所で飯を食ったっていいじゃないですか。

 

そして、便所飯をしている自分を、卑下したりしないでほしい。
人よりちょっとだけ感受性が強くて、傷つきやすい自分を認めてあげてください。

 

「そういや一時期便所で飯食っていたな自分(笑)。」

 

というように、いつか便所飯をしていた自分を笑える日がやってきますよ^^

 

 

なぜ若者はトイレで「ひとりランチ」をするのか

なぜ若者はトイレで「ひとりランチ」をするのか

 

 

 

普通の完全週休二日制が一番。勤めている会社の休日設定に思う、連休のありがたみ

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会社の休日はいつですか?

皆様の会社の休日はいつでしょうか?

 

多くのサラリーマンは、「土日祝日」が休みでしょう。

まあ、実際に休めるかどうかは別として、「土日祝日」の完全週休二日制の会社が多いと思います。

 

次に多いのは、日祝休みで、隔週土曜休みでしょうか。

東京などの都会や大企業ではあまり見られなくなりましたが、地方の中小企業にいくとまだ多くの会社がこの休日体系を取っています。

 

そのほか、販売・サービス業に多いのが4週6休などの休日体系。

土日に営業をしていたり、シフト体制になっている場合は、このような休日のとり方をするほかありません。

 

不動産会社なんかに多いのが、水曜日休みで4週6休という休日体系。
なんで不動産会社は水曜日休みが多いのでしょうか?

 

休日体系の変化

最近、連休って大事なんだなって思います。今時分が勤めている会社は、水曜日が休みで、そのほかに休みが月2・3日あります。


連休になることはまれで、飛び飛びの休みがほとんどです。

 

年末年始やゴールデンウィークには連休となり、それが年4・5回あります。

 

以前は普通に土日休んでいました。今の会社に転職して完全週休二日制ではなくなったのですが、そのときはあまり深く考えていませんでした。

休みが年120日程度から105日くらいに減る事はわかっていたのですが、

 

「年間15日なら月1日くらいでしょ?そのくらいなら大丈夫。」

 

と思っていたのです。

 

しかし、実際に変わってみると、思った以上に休日が変わったことは心身ともにダメージになりました。

 

休日体系が変わったことで、思っていた以上に疲労感があることに気づいたのです。

 

どうして疲労感がアップしたのか

なぜ疲労感が増すことになったのか。その理由を考えてみました。

年間15日の休日が減ったわけですから、そのせいなのかとも考えましたが違いました。

 

連休が減ったことによって心身ともに疲れを感じるようになったというのが、一番の理由だと思います。

 

連休って大事なんです

 

一度慣れたら元には戻れない

まあ、昔のサラリーマンは週休二日制なんかなく、日曜日以外は働いていたのです。
連休がなくたって、週休2日制であればいいだろと言われても仕方ありません。

 

でも、一度週休二日制に慣れてしまうと、連休がないと想像以上にしんどいです。
これは、そうなって初めて気づきました。

 

今後、転職を予定していて休日設定が変わるという場合の方は、連休が取りやすい環境かというのも注意したほうがいいかもしれません。

 

 

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

 

 

大企業と中小企業のどちらがいいのかという話

 

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大企業と中小企業のどちらがいいのかという話。

 

大企業と中小企業の定義があいまいですが、おそらく大企業と思われる会社、中小企業のどちらともで働いてきた経験を元に、思うことを書いていきます。

 


中小企業と大企業の決定的な違いについて:ぼくが大企業で絶対に働きたくない理由 : まだ東京で消耗してるの?

 

 

上司を選べるのは意外に大企業? 

書いてあることは概ね賛成なんですが、大企業が「上司を選べない」というのはそうでもないかなと。むしろ上司を選べないのは中小企業だった気がします。

 

大企業は社員数が多いので、クソ上司もいればイイ上司もいます。配属で自分の意思とは無関係に、クソ上司の下につかされることもあるでしょう。

 

でも、大企業のいいところは、一定期間我慢すれば人事異動によって上司が変わることです。ずっと、そのクソ上司の下にいなければいけないということは稀でしょう。

 

上司が勝手に飛ばされることもありますし、自分のがんばり次第では所属部署を変えることもできるのです。そうした組織的な成熟度は、大企業のほうが上です。

 

逆に、中小企業は異動しようにも移動する部署がなかったり、拠点がひとつしかなかったりしますから、一度クソ上司についてしまうと二度と逃れられなかったりします。

 

さらには、組織的な成熟度は低く、「自分から異動を願い出る」なんてもってのほかだったりします。これでは、上司との関係をたつのは難しいでしょう。

 

どちらかというと、クソ上司から逃れられやすいのは大企業のほうな気がします。

 

中小企業では見極めが必要

中小企業のほうがクソ上司に当たる可能性が低いとするならば、前提条件として「クソ上司がいないことを入社前に見極めることができる」ということが必要になります。

 

しかし、入社前にその会社にクソ上司がいないかどうかという見極めは非常に困難です。面接なんかでは絶対わからないことです。社会経験をつんでいない学生では、さらに難しいでしょう。

 

一番よい方法は、一度その組織で働いてみることです。インターンやアルバイトで短期間その中小企業に入ってみて、クソ上司の不在を確認するわけです。

 

そうすれば、大企業より中小企業のほうが「いい職場」になることもあると思います。

 

その他雑感

以上書いていて、そのほかに思ったこと。

 

部下を精神的・体力的につぶすようなほんとうのクソ上司ならだめですが、ある程度のクソ上司の下で一定期間働くのは、長い人生で見るとプラスになることもあると思います。いわゆる反面教師ってやつです。

 

まあ、精神的にやられるなら本気で逃げなければいけません。そんなときは、大企業のほうが異動や転職がしやすいのでいいかなとおもいます。

 

 

できる人は上司に“モテ”る 仕事は上司との関係が9割!

できる人は上司に“モテ”る 仕事は上司との関係が9割!

 

 

 

おじいちゃん・おばあちゃんとの想い出がなくなっていくのかもしれない

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先日、ふと「自分は孫の顔を見れるのかなあ・・・」と思いました。

 

私は30代半ばで結婚しました。すぐに子宝に恵まれ、今は二人の子どもがいます。

私の両親は60歳になったばかりで、まだどちらも元気です。

 

なぜなら、私の両親は20代半ばで結婚し、私が生まれました。

だから、今60歳というわけです。

 

ですが、私は30代半ばで子どもが生まれました。

子どもが30代半ばで結婚したとすると、そのとき私は70歳。

 

「・・・生きてるんかいな。」

 

と思うわけです。

 

もし、生きていたとしても、もう何もわからない状態だったり、体が動かない可能性もあります。

 

もし70歳で元気だったとしても、子どもが記憶に残るころまで生きられないかもしれません。

 

 

そうなると、私が孫の記憶に残ることはないのです。

 

今まで、自分が結婚するのが遅いと思ったこともなく、

 

「まあ、このくらいの結婚が普通だよね。」

 

と思っていたわけですが、昔の基準に比べたられっきとした”晩婚”なわけです。

 

こうして晩婚が進んでいくと、子どもが”おじいちゃん”や”おばあちゃん”と過ごす時間というのはどんどん少なくなっていくんでしょうね。

 

自分はまだ、両親が早くに結婚したから、自分の両親に孫の顔を見せることができましたが、晩婚の世代交代が続くとそうはいかなくなるというわけです。

 

いずれは、おじいちゃんとおばんちゃんとの思い出を作れる子どもが少なくなってくるのかもしれません。

 

晩婚化が一概に悪いとは思っていませんが、なんだかそれはさびしいなと思ったわけです。

 

 

トイレの神様

トイレの神様

 

 

うれしかった言葉。「実家に預けるより旦那に預けたほうが楽」

先日、自分が休みの日に、嫁さんに子どもの面倒をみるように頼まれました。

 

嫁「明日、ちょっと友達とお茶したいから、子供の面倒見ててくれない?」

私「どのくらい?」

嫁「3時間くらいかなあ」

 

私たち夫婦には二人の子供がいて、1歳と5歳。

 

子どもの面倒をみたことがない人にはわからないかもしれないけれど、1歳の子どもを含む二人の子どもの面倒をみることって、結構大変なことです。

 

まあ、毎日嫁さんはそれをやっているのですが、旦那である私が同じことをするのは、ある意味もっと大変なことなのです。

 

子どもは二人ともママっこになっていて、何かあると「ママ~ママ~」なわけです。楽しく遊んでいるときはいいのだけれど、なにかトラブルがあるとママを探し、泣き叫び手が付けられなくなります。

 

そんなこともあり、休みの日にそれをやると、疲労困憊なわけです。

 

 

ですが、休みの日に嫁さんにリフレッシュをしてもらうというは大事なことで、できる限りやるようにはしています。それをやっておくと、嫁さんの精神状態も安定するので、後々楽になるんですよね。

 

で、その日は子供二人と3時間過ごしたわけです。そのことをいろいろ話していた時に、何の流れだったかわからないけれど、「実家に預けるのと旦那に預けるのはどちらが楽か」という話になった。

 

私「実家に預けたほうが気分が楽だったりしないの?」

嫁「いや。断然旦那のほうが楽だよ。」

 

そういわれたのが、なんだかうれしかった。

子どもを安心して預けられると認められているわけで、実家よりも信頼されているわけで。

 

そんな話を、会社の飲み会の席で話したら、

 

同僚「それは嫁にコントロールされているだけだわ」

 

と言われました。

まあ、その通りですな。

 

 

でも、たとえそうだったとしても、子どもの面倒をみれる父親であることは、自分にとってうれしいことなんだよなあ・・・

 

 

男の子を伸ばす父親は、ここが違う! (扶桑社文庫)

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勤務時間・勤務日数が選べるという制度、よくないですか?

仕事に集中できるタイミング

仕事に集中できるタイミングってありますよね。1日でも1年でも10年単位でも…それぞれ人によってあると思うのですよ。

 

1日という単位でみたときには、「朝のほうが頭が冴えて集中できる!」って人もいれば、「夜のほうが静かで集中できる!」って人もいます。だから、人によって“集中して働きたい時間”も変わってきますよね。

 

フレックスタイム

それに対応しているのが、『フレックスタイム』という制度です。コアタイムと呼ばれる時間に出勤し、合計勤務時間が規定に達していればよいという制度です。

 

たとえば、コアタイムが10時~14時で勤務時間が8時間だとすると、6時~14時勤務でもいいし、10時~18時勤務でもいいということです。※休憩時間は無視しました

 

1日という単位で見れば、『フレックスタイム』を活用すれば、働く時間を選択できるというわけです。

 

でも、1年・10年単位でみると、自由に働く時間を選択するという制度が少なくなってくるのですよねえ…

 

1年単位

1年単位で働く時間を自由に選択できると憂い制度は、あまりないような気がします。

 

例えば、趣味がスノボで、冬はできるだけ勤務時間を短くしたいし・勤務日数も減らしたいと思っている会社員がいるとします。

 

冬の勤務時間は6時間で、月の勤務日数が15日。逆に夏は勤務時間を10時間にして、月の勤務日数を25日にするということが出来るのであれば、その会社員は嬉しいんじゃないかなと思うわけです。

 

もしかすると、やる気が出るかもしれないし・会社への忠誠心が高くなって会社を辞めにくくなるかもしれない。

 

10年単位

では、10年単位ではどのようなときに働く時間を選択する機会があるでしょうか。

例えば、

 

  • 入社したてのころは慣れるために週5日・8時間勤務
  • 脂が乗ってきた3年目からは週6日・10時間勤務
  • 結婚して子どもが生まれたので週4日・6時間勤務
  • 子どもが大きくなってきたから週5日・8時間勤務に戻す
  • 最後は定年間近でスピードを落としたいので週3日・4時間勤務

 

というのはどうでしょう?人生設計が立てやすくなるし、嬉しいと思いませんか?


意外にこういう制度ってないんですよねえ…

もちろん、会社には繁忙期があり、社員が各個人で好き勝手に勤務時間を決めると、会社としては困ることも多いかもしれない。

 

でも、うまく管理して実現すれば、社員としては長く働ける会社だと思うだろうし、定着率が上がると思います。メリットも多いのではないでしょうか。

 

ちなみに、この制度をつかって勤務時間・日数を減らした場合は、もちろん給与も減る仕組み。逆に増えた場合は給与が上がります。そうじゃないと不公平になっちゃいますからね。

 

あと懸念されるのは、勤務日数と時間を管理するオペレーションの増大ですが、これは最初からそれに適したITシステム用意すればいいかと思います。

 

産休・育休との併用

よく、産休・育休を取ると、他の社員から「不公平」という声が上がるということがあります。

 

確かに、子どもを産んだからという理由だけで、特定の社員が優遇されるのでは、独身者や子どもを持たない既婚者から不満があがるのは当然だと思います。

 

だから、このような制度で『全員が一時的に勤務時間を減らせる』という仕組みがあればいいと思います。

 

どうでしょう?

このような制度がどの会社でもできるとは思わないけど、できそうな会社もあると思う。所謂、「採用労働制」を用いている会社は、工夫と管理するシステムさえあれば出来るのではないかと思う。

 

経営者としては社員の労働力を計算しにくくなるかもしれないけれど、メリットもあると思うのです。とくに社員が定着してくれないという会社によさそうだと思います。

 

こんな制度がある会社で働きたい!と思っています。

 

 

お金と時間と場所に縛られず、僕らは自由に働くことができる。

お金と時間と場所に縛られず、僕らは自由に働くことができる。

 

 

「自分の会社の常識=世間の常識」と信じている人がいる

会社もいろいろ、常識もいろいろ

自分は人より少しだけ多く転職している。また、他の会社に滞在することもあるので複数の職場を経験している。いろいろな職場に行って思うことは、「会社もいろいろ、常識もいろいろ」ということだ。

 

ある会社の常識が違う会社の非常識になり、前の会社の常識を持って転職すると、他の会社では非常識な人になってしまう。

 

結局、その常識が本当に常識かどうかもよくわからなくなる。常識というのは、ある限られた世界でのものなのだ。それを覚えておかないと、転職したときに痛い目にあう。

 

たとえば冠婚葬祭の常識

たとえば、冠婚葬祭。ある会社はドライな会社で、冠婚葬祭での社員間のお金のやり取りはほとんどなかった。結婚したときに、社員で数千円集めてプレゼントを贈る程度。無駄なやり取りがないのでおおむね好評だった。

 

しかし、ある会社は冠婚葬祭はもちろん、異動・転勤などにもお金をやり取りする会社だった。そんな会社だから、他の社員の動向を逐一チェックしてなければいけない。もし、その情報を得るのが遅れると、お金を渡せない=非常識な社員となってしまうのだ。

 

冠婚葬祭のやり取りがほとんどない会社に新卒で入り長く勤務していたとしたら、やり取りが多い会社に入ると違和感を感じるだろう。「そこまでやらなくても・・・」と思うかもしれない。

 

しかし、そこは新しく入った会社の常識に従わなくてはならない。それが所謂「郷に入っては郷に従え」ということなのだ。

 

必ずいるタイプの人

確かに、転職者は新しい職場に馴染むために、ある程度の努力は必要だ。少し「おかしいな…」と思ったとしても、そこのルールに従わなくてはいけない。

 

ただ、そんな転職者にとって面倒なタイプの人がいる。転職して新しい職場に行くと必ずいるのだ。それは自分の経験上、ほぼ100%に近い。

 

それはどんな人かというと、「自分の会社の常識=世間の常識」と信じている人だ。

 

自分の会社の常識=世間の常識

そのタイプの人は、その職場で長く働いている。長く働いているのだから、当たり前のようにその職場の仕事に詳しく、社内人脈もある。

 

仕事ができるかというとそれはどちらともいえない。できる人もいれば、できない人もいる。ただ、共通しているのは、仕事を自分でコントロールできているということだ。それなりの役職にもなっているので、権限や裁量を認められている。

 

その人は、自分の「会社の常識=世間の常識」と信じている。だから、「自分の会社の常識を守れない人=社会人としてなってない人」と判断する。

 

その常識は、世間の常識とイコールかもしれない。ただ、外の世界から来た人から見ると、ちょっと変わっていたり、非効率だったりすることもあるのに。

 

仕事のやり方も

仕事のやり方でも一緒です。その人は、現在の仕事のやり方が一番常識的だと思っている。だから、新人や転職者が入ってきたら、その仕事のやり方を強要する。

 

その社内でしか通用しない仕事のやり方や常識を、「社会の常識」、「社会人として当たり前のこと」というように信じている。そして、異なる考え方を理解しようとはしない。

 

そして、「自分は仕事ができ、他のやつは使えない。」「新しく入ってきたやつは使えない」と思っているのか、尊大な態度で他の人に指示をしたり、注意をする。

 

そうなると、新人や転職者はうんざりしてしまうわけです。

 

新しい血を受け入れる器

最初にも書いたとおり、新人や転職者はある程度、自分が働き始めた会社の常識に従う必要がある。それが例えおかしくて非効率だったとしても。

 

しかし、その常識を絶対的な常識だと信じ、それに従わない新入社員や転職者を「できない」と判断する先輩や上司は、見識が狭いといわざるを得ない。そしてそれは、器の小ささを露呈しているのである。

 

せっかく新しい血が入ってきたのだから、その常識の違いを一度は受け入れるくらいの器の大きさがほしい。

 

「自社の常識はもしかすると世間の非常識かもしれない。」と一度は考えてみることが必要なのではないか。

 

そうすれば、態度の気に食わない新入社員や転職者にも優しくなれるかもしれない。

 

 

日本でいちばん社員満足度が高い会社の非常識な働き方

日本でいちばん社員満足度が高い会社の非常識な働き方

 

 

 

羽毛製品はケチらないほうがいい

わたしケチです

私は基本的に“ケチ”です。金欠のせいもありますが、基本的に高いものはあまり買いたくなく、安いものを買ったほうが落ち着くたちです。なんか高額のものを買うと、罪悪感みたいなものが生まれるんですよねえ…

 

ただ、そんなけちな私でも、ケチらないほうがいいと経験上理解しているものはあります。そのひとつが“羽毛製品です”。羽毛製品はケチるとろくなことがないです。

 

羽毛の質は価格に比例

羽毛布団にダウンジャケット、羽毛製品といえばこの二つです。経験上、この二つの製品でケチって安いものを買ってもいいことはありませんでした。

 

羽毛製品の安いものは、“重い”か“薄い”のどちらかです。購入したあとに後悔することになります。

 

価格の安い羽毛布団にありがちなのが、重いということです。純粋なダウンだけではなく、それ以外のものが使われていると重くなります。

 

羽毛布団の一番の売りは軽さなのに、重かったらまったく意味がありませんよね。ケチるとそういうことになります。

 

また、安物の羽毛布団にありがちなのが薄いということ。価格を抑えるために羽毛の量を減らすというわけです。羽毛布団ならぬ不毛布団で、その場合暖かさが減少してしまいます。

 

ダウンジャケットはそれが顕著です。安くて軽いからいいなと思って買うと、実はあまりダウンが入っていなくて、意外に寒いということがよくありました。

 

さらに、ダウンの量が少ないので、着ているうちにダウンが偏ったりしたこともありました。

 

ケチらないほうがいいです

このように、羽毛製品に関してはケチるとろくなことはありません。ケチらずにそれなりの値段のものを買ったほうがいいでしょう。

 

世の中にはケチっていいものとだめなものがあります。羽毛製品はまさにそれだと思います。どうしてもケチりたい人は、そもそも羽毛製品は買うべきじゃないでしょう。

 

 

 

 

主張と俯瞰

主張をぶつけたい

このブログでは、自分が思っていることをストレートに書くようにしている。そのために匿名で書いている。実名を出すと、どうしても読む人を想像してしまうからだ。普段は思っていても言えない“主張”を書きたいと思って、このブログをはじめた。

 

しかし、いざはじめてみると、思ったままの“主張”を書くのは難しいことだと実感した。「ここでは素直に書いていいのだ。」と思って書いているのだが、なかなかうまくいかない。なぜなら、一度書いた文章を再度読み直し“俯瞰”してみると、その“主張”がいかに独りよがりで狭い視点のものかを実感させられるからだ。

 

書いているときは「絶対こうだ!」と思っているのだが、読み返してみると「あれ?こうじゃないかな。」「これは人によっては誤解するだろうな。」などと考えてしまう。それが正しいかどうかはわからないのだけれど、そのまま公開するのをためらってしまい、書き直すことがよくある。

 

ブロガーってすごいですね

世の中の“ブロガー”と呼ばれる人たちはすごいと思う。自分の主張・意見をずばりと書いている。それが時として炎上したり、批判されたりするのだが、それでもかまわずにブログを続けているのである。精神力がないと出来ないことだと思う。

 

そんな人たちも、やはり“俯瞰”して、書き直しているのだろうか。“プロ”と頭につくブロガーは、自分の主張の微調整はしても、本筋は曲げていないように思える。たとえそれが炎上・批判される内容でも、主張することは主張しているのではないか。だから、その記事は賛否両論だけれども面白く、人を集めることができる文章になるのだろう。

 

“俯瞰”するのは間違いではない。でもその結果、公開して炎上・批判されることを恐れて主張を曲げてしまうのが自分だ。だから、呼んでいて面白くない文章になるのだろう。無難な文章は誰も傷つけないが、誰も惹きつけない。

 

面白い文章を書きたければ、炎上・批判を恐れずに自分の主張を書けばいいのだ。それがブログという場なのだから。と、言葉で書くのは簡単だが、実行するのは難しい。たとえそれが匿名だとしても。それを実行するには、自信がなければできないのではないか。あと、才能もある。そう考えると、自分は文才がないだけかもしれない。

 

言いたいこと

なんだかよくわからないエントリーになったけれど、言いたいことは、たとえ匿名のブログでもいいたいことを主張するのは難しくて、ついつい気を使って書いてしまっているなとうこと。これってやっぱり現実社会からの一種の病なんですよね。波風立たないように生きてきたのだから、ネットとはいえ急にそれを覆すというのは難しいのです。

 

 

ブログ飯 個性を収入に変える生き方

ブログ飯 個性を収入に変える生き方

 

 

男性の「仕事」の価値が低下しているのではないか

 

最近気になっていることがある。それは、男性の「仕事」の価値が低下しているのではないかということについてだ。

 

平均年収は下がり続けており、安定雇用もままならない。成果主義が広がり年功序列もなくなってきた。男性は昔と同じ仕事をしているのに、その価値が上がらない・評価されない、そんなジレンマを抱えているように感じる。

 

男性が一家の大黒柱だった時代

一昔前は、男は「一家の大黒柱」というのが常識だった。私の親もそんな時代の人で、父親が働き、母親は専業主婦だった。父親が稼ぎ・母親は家事をする。それが当たり前だった。

 

父親はいろいろ欠点があり、失敗もした。しかし、「一家の大黒柱」である父親は、家族にとって大事な存在だった。。なんといっても、自分達の食いっぷちを稼いできてくれる父親を尊敬していたのである。

 

大学受験と就職難

そんな子ども時代を過ごした私は、大学受験をする。子どものときから親に言われていたのは、「とにかく大学に行けば、就職できるから。」ということだ。

 

「そうか。まずは大学に入ればいいのだ。」

 

一生懸命勉強して、大学に入学した。これで就職できるなと思っていた矢先、景気が悪くなり、就職氷河期が訪れた。大学を卒業しても就職がない時代になった。

 

思い描いていたような大企業には就職できない時代。希望通りの就職先を見つけるのは困難だった。それでもなんとか就職先を見つけた。

 

そして働き始めた

大学を卒業して働き始めた。

 

一生懸命働いたが、仕事をするというのは大変だ。会社によっては、残業地獄・パワハラ当たり前・給料が安いなど、いろいろな問題がある。

 

大企業ではないのだから、当たり前だ。いや、大企業ですら倒産・リストラがある時代になってしまった。

 

植えつけられた価値観

自分が子どものときに植え付けられた価値観。それは、大学を卒業して→ある程度の規模の会社に入って→給料が上がっていき→結婚→子どもが生まれる→ひとつの会社を退職→老後というものだった。

 

自分も自然とそのようなパターンをたどってきた。現在は結婚して、専業主婦の妻と二人の子どもがいる。

 

親から「こうしろ!」と教わったものではないが、親の生き様をみて自然と植えつけられた価値観だ。

 

女性が働かなければならない時代

しかし、時代は変わってしまい、仕事をしても給料は上がらない(どころか下がる)、会社の経営が不安定になる、リストラにおびえるようになってしまった。

 

そんな時代に、政府や社会は、「だったら女性が働けばいい」というようになった。つまり、「男性の稼ぎだけでは、生活できないでしょ?だったら女性に助けてもらいなさい。」というわけだ。

 

そんなことを強いられる女性も気の毒だと思うのだが、女性は家事・子育てをしながら働かなければいけなくなった。

 

その代わり、男性も家事・子育てを積極的にやりなさい。そんな風潮が強まり、“イクメン”という言葉が生まれた。

 

高まる女性の仕事の価値

そんな傾向の中、女性の仕事の価値は高まり、存在意義は増すばかりだ。家事をこなし・子育てをしながら、仕事もする。

 

家事の大変さが世の中に広まり、「主婦の家事労働の価値は年間1000万円」といわれる。「子育てはホントに大変なんだ。」ということも認知されてきた。

 

一昔の専業主婦が行ってきた「家事」は、「当たり前のこと」ではなく「大変なこと」なんだと、価値が見直されてきている。

 

それに加え、仕事もしちゃうわけだから、女性の価値はうなぎのぼりだ。

 

下がり続ける男性の価値

一方の男性はどうだろう。上で書いたように、男性の仕事の価値は、社会でも家庭でも下がりっぱなしだ。社会的には、賃金が上がらず・雇用も少なくなってきて、男性の仕事は減ってきている。それに従い、家庭内でも存在意義は薄くなってきている。

 

昔のサラリーマンの働きっぷりよりも、今のサラリーマンの働きが著しく劣っているとは思えない。同じ仕事をしているのにもかかわらず、価値が低下してきているのである。

 

さらには、女性が仕事をしなければいけないようになり、家事への参加も求められている。そこで、慣れない家事や育児もがんばってみるが、なかなかうまくいかず、妻から認めてもらえるような働きはなかなかできないものだ。

 

最近の風潮により、男性が家事をやることが“当たり前”になってしまい、たとえうまくやっていたとしてもそれが男性の価値向上につながることが少なくなってきてしまった。男性が家事・育児をするのは当たり前になったのだ。

 

男性はがんばっているのに、認められない時代になってきた。

 

変えられない価値観

私はこの流れに反対しているわけではない。子育ても楽しいし、家事だってできるかぎりしたいと思っている。“イクメン”と呼ばれたい。けども、自分の中にある価値観との矛盾に葛藤することもある。

 

自分の今の給料ではギリギリだし、いつかは嫁さんに働いてもらわなければいけなくなるだろう。それは仕方のないことだというのはわかっている。でも、どこかでその現実を悔しく感じている。

 

時代は変わっているのに、変えられない価値観。父親である自分が、家族を養えるだけのお金を稼ぎたい。妻に働くことを強要したくない。そんな価値観が自分を苦しめている。

 

ちっぽけなプライド

それは本当にちっぽけなプライドだ。「だったら、がんばって仕事すりゃーいいじゃん。もっと稼げばいいじゃん」と思われるかもしれない。けれども、それがなかなかうまくできない人もいるということです。

 

妻に働いてもらわないと家族を維持できない自分。そんな自分に自分で価値を見出せなくなってきている。それでいいのかと。

 

男性の「仕事」の価値

仕事をして、お金を稼ぐというのはホントに大変なことだ。それを続けているだけでも存在意義はあるし、価値はあるはずだ。

 

それなのに、男性の仕事の価値が下がっているのではないか。

 

女性が家事・育児・仕事を両立させているのであれば本当にすごいと思うし、それは尊敬する。女性の価値をもっと認めなければという意見も賛成だ。

 

ただ、男性の仕事の価値も少しは認めてもらいたい。ただ働き続けているということだって、立派で大事なことなのだと。

 

それを認めてもらえるだけでちょっとがんばれるほど、男性は単純な生き物なのだから。