バスを降りるときに運転手に「ありがとうございました。」と言うべきか
今日はタイトル通り、バスを降りるときに運転手に「ありがとうございました。」と言うべきかについて書こうと思います。皆さんは言いますか?
自分は言います。というか、自然と出てしまいます。何でだろう?躾けられたのかな?記憶にないけど。
でも、「ありがとうございました。」と言う必要はないと思っていました。だって、「バスに乗るときはお金を払っているわけで、タダで何かしてもらったわけではないから」というロジック。
ただ、運転手のほうから「ありがとうございました。」って言われたら、「ありがとうございました。」っていうのは必要かと思っていました。そこで何も言わないのも感じ悪いので。
同じことは、タクシーに乗るときもそうですし、コンビニなどでお買い物をするとき、飲食店でご飯を食べたときにも通じますよね。
自分は、
- タクシーに乗るとき→「どうも~」とか言って降りるかな。
- コンビニなどでお買い物をするとき→何も言わないかも。気分がいいときは「どうも~」っていうかな(笑)
- 飲食店でご飯を食べたとき→これはほぼ「ごちそうさまでした」って言ってる。ひどいサービスの時は言わない。
という感じです。
すべてに通じるのは、「サービスを提供する側と顧客の関係性」という点。
自分はうえで書いたように、客はお金を払ってサービスという対価を受け取っているわけで、「ありがとうございました」とかいう必要はないと思っていました。
でも、書いていて思ったのは、飲食店でご飯を食べたときは「ごちそうさまでした~」ってほぼ100パーセント言っているわけで、それとバスやタクシー、コンビニの「ありがとう」は何が違うのかな?
…違わないよね。てことは言ったほうがいいのか。
ちなみに、日本では「お客様は神様です」という言葉通り、お客様を大事にすることが当たり前ですが、海外ではそうでもないっていう話を聞いたことがありました。
インドではサービスを受ける側・提供する側は対等という話をどこかのテレビ番組で見たことがありました。
日本の「お客様は神様です」という考え方は、一流のサービスを生み出す一方、「客はお金を払っているんだから、もてなされて当たり前」→「何をしてもよい」という悪い慣習につながっているという話もあります。
日本と海外の文化の違いは、どちらかがよくてどちらかが悪いというものではないと思います。でも、海外ではサービスを受ける側・提供する側は対等という場所がある以上、それなりの対応をできるようになっておいたほうが、これからの国際時代に恥ずかしい思いをしないかもしれません。
というか、「ありがとう」とか「ごちそうさま」といわれて嫌な人はいないわけですから、それくらいタダなんだし言っておくほうが得ですな。
「ありがとう」とか「ごちそうさま」とか言うようにしつけてくれた親に感謝しつつも、自分の子どももそういうように育てていきたいと思った次第です。
あと、コンビニでも何か言わないと。って何て言えばいいのかなあ???
「ノー残業デー」という意味の分からない制度
今所属している会社には、「ノー残業デー」なる制度があります。これが本当に邪魔臭いし、迷惑な制度だと思うので、今日は文句を書こうと思います。
まず最初の前提として、「ノー残業」って普通じゃないんですかね?そもそも、ノー残業が普通で、仕方なく残業しているんだと思うんですよ。でも、この「ノー残業デー」って、残業があるのが普通で、「この日だけは残業をしないで帰りましょう」っていう制度ですよね。まず、この時点でナンセンスだなって思うわけです。これは「定時退社日」っていう呼び方していても同じです。いやいや定時が普通でしょっていう話。
まあ、会社って残業しなければ回らないこともあるし、「普通残業あるよね?」っていう状態なのはわかります。そんななか、「せめて週一回くらい早く帰りましょうよ。」っていう試みでしょうから、百歩譲ってOKとしましょう。でも、さらによくわからないのが、みんな同じ曜日に「ノー残業」ってなんなんでしょう?
工場みたいにライン作業しているならばみな同時にノー残業でもいいかと思うのですが、普通の会社勤めしているとほとんどがそうではないですよね。チームで作業していていても最終的には個人作業だと思うんですよ。それで、みな同じ曜日に定時で帰れっておかしくないですか?
子どもじゃないんだから、早く帰る日と遅くまで頑張る日ぐらい自分で決めるっつうの。仕事が乗っているのに帰らなければならなかったり、ほかに早く帰りたい日に「非ノー残業デー」ということで帰れなかったりするのは本当にめんどくさい。
こんなことを書くと、超絶ブラックな会社勤めの人から怒られますかね。「うちは形式化している」とか「ノー残業デーって何それおいしいの?」状態の人もいるでしょう。そんな人から見たら、週一回でも早く帰られる日があるのはうらやましいと思うんですよ。元ブラック(?)勤めだったんでよくわかります。
でも、人間って贅沢なもので、ノー残業デーがあるとついつい文句言いたくなっちゃうんですよね。
ブラック勤めの人ごめんなさい。でも「ノー残業デー」に文句をつけてみました。確かに「定時退社日」があるのは恵まれた環境だなって思うのですが、曜日を決める必要もないし、好きな時に帰りますよ。さらには、無理して残業なんてしませんよっていうのが本音だったりします。
今日は「ノー残業」だったので、この記事を書いてみました。ちゃんちゃん。
なぜあの人は定時に帰るのにNo.1なのか? ?残業ゼロの仕事術
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あるバスでの出来事
今朝、いつも通りバスで出勤していました。その時の出来事です。
自分がバスに乗ってしばらくすると車内が混雑してきました。毎朝のことですが。アッという間に席が埋まっていきます。ですが、自分の二つ前の2人座席のうち通路側と、その隣の1人座席のみが空いていました。2人座席の窓側には中年の男性が座っておりました。
あるバス停につくと、幼稚園児とそのお母さんが乗ってきました。二人分の座席が空いているのですが、離れているため1人座席にお母さんが座り、その膝の上に子どもを載せていました。
発車してすぐに、その幼稚園児がぐずりだしました。「膝の上は嫌だ。」「座って窓の外の景色が見たい」という主張だったと思います。まあ、かなりわがままな注文ですが、幼稚園児ですから仕方ないとも言えます。そんな子どものわがままをお母さんはなだめていましたが、とうとう子どもが大きな声で泣き出しました。
車内に響く子どもの泣き声。のらりくらりとなだめていたお母さんもさすがに慌てだしました。しかし、子どもの望むようにすることはできない状況でした。結局、そのお母さんはなだめるために席を立ち、子どもを抱っこして終着まで立っていました。
今朝のバスはこんな状況だったのですが、何かうまくいく方法はなかったのか?と降りた後考えていました。皆さんはどう考えますか?
自分は、「2人座席の窓側に座っている中年の男性が、席を譲ればよいじゃないか。」と思っていました。その男性が席を譲って、お母さんと子どもを2人座席に座らせて、自分は立つか1人座席に座ればよかったのではないかと。しかし、男性は全く知らん顔で、そんなそぶりを見せませんでした。そんな空気を読めないところに若干の苛立ちを覚えていたのは事実です。
しかし、男性にも何か事情があったのかもしれません。考え事をして周りの状況が目に入らなくなっていたからとか、体調が悪くて立ち上がるのもしんどかったとか。何かしらの事情の有無はその男性にしかわかないので何とも言えません。
また、その幼稚園児のわがままを許してしまうというのが、本当に良いことなのか?という議論もあるでしょう。たしかにその主張をかなえてあげれば、子どもは泣き止むし、社内は静かになるので、場は収まったかもしれません。しかし、バスはあくまで公共の場。自分の思い通りにはならないということを子どもには教えなければいけません。
お母さんと子どもが座るところもなく立っていたのであれば、席を譲るというのが正しい選択でしょう。しかし、今回の場合は二人とも座る場所があったわけで、あえて席を譲らなくていいという気もします。
そして最後に思ったのは、自分はその男性が席を譲らないことにもやもやしていたわけですが、よくよく考えてみると自分が譲るということもできたわけです。二つ後ろに座っていたわけですから、自分の隣に座っている人に声をかけて、二人で席を譲ってあげればよかったともいえます。男性に対してとやかく思う資格はないわけで、まず自分が行動すればよかったわけです。
そんなわけで、あるバスの出来事でしたが、いろいろな選択肢があったのだなと、バスを降りてから思った次第です。
くそみたいな会社で無駄な時間を過ごしたと思っていたけど、そうでもなかった
1・2年前に新しい会社に転職してからというもの、忙しいけれどそれなりに楽しく仕事をしている。忙しくても給料がそこそこでも、仕事が楽しけみればストレスは激減するっていうことを実感している。
前職の会社は、ホントくそみたいな会社だった…と思っていたけど、思い返してみるとそうでもなくて、単に自分との相性が悪かっただけのように感じる。あの会社にはあの会社の文化とやり方があって、自分はそれを受け入れられずに馴染めなかっただけだ。会社だけが悪いわけでもないし、自分だけが悪いわけでもない。
どんな点が馴染めなかったかというと、官僚的なやり方がどうしても受け入れられなかった。ある方針を決めるときに、上に伺いを立てる前に徹底的に下の者が下調べをして、準備しつくしてから…というのが鉄板のやり方。上と話し合いながら、方針決めをするというやり方は皆無だった。
自分は今まで、基本的には小さな会社で働いてきたため、そんな回りくどいやり方が納得いかなかった。様々な選択肢を検討しつくさなければならないのだけれども、上にヒアリングをすればある程度絞り込めるのではないかと思うことが多々あった。でも、そんなやり方は上は認めてくれず、徹底的に調べつくした報告を良しとした。
そんなやり方だが、大企業ではよくある話だと思うし、一概に問題があるとはいえない。確かに上の人の時間は貴重だし、ヒアリングの手間をかけないという配慮は必要だ。
でも、自分のやり方はそうではなく、「一緒に考えればもっと効率よく仕事を進められるのにな~」と常々思っていた。そんなことを考えながら仕事をしていると、モチベーションは下がってくるし、やる気はみるみると落ちていった。
大企業的なやり方に納得いかなかったのは、それをやっていた前職の会社が「大企業ではなかった」という要因も大きい。「中小企業のくせになに大企業ぶってんだよ!」という気持ちもあった。
そんなこんなで、会社になじめない自分は転職して、今の会社に入った。つくづく大企業(ぽい会社)は性に合わないと思って、中小規模の歴史の浅いに会あん社に決めた。
現在は、自分でまず最初のプランを立てると、すぐに決裁者と相談して、ブラッシュアップしていきながら決定していくという、自分が理想としていたやり方が実現できている。無駄な調べ物の時間も減って、効率よく仕事ができていることを感じる。意思決定の速さというのは中小企業の強みでもあるわけで、そうした仕事の仕方のほうが絶対いいと思うのですが、どうなんでしょうか?
で、ここでタイトルの、「くそみたいな会社で無駄な時間を過ごしたと思っていたけど、そうでもなかった」という話。
現在、前職での経験がすごく役に立っています。できるだけ短時間で様々なパターンを分析するという仕事の仕方は多面的に物事をとらえる訓練となっていたようで。今ではすべてを調べるということはないのですが、最初にプランを立てるときにとても役に立っているといわざるをえません。
また、会社の中でどのように根回しをして、準備をするかっていう泥臭い方法もとても役に立っています。今はそこまでやる必要はなくなっているのだけれども、ここぞってときにそれをやると効果てきめん!面白いように会社内で決済がうまくいくのです(笑)
前の仕事をしているときは、「ホントなんでこんな会社入っちまったんだろう」って思っていたのですが、無駄な仕事ってあんまりなくて、やっていたらいいこともあるなと思った次第です。
人生に無駄な経験などひとつもない―「難有り」を「有難い」に変える「志」の力
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昔偉かった人の末路
様々な人
この前、介護施設で働く友人とご飯を食べてきた。友人は介護施設で10年働くベテランだ。その間、多くの老人の介護を行ってきた。様々な人が介護施設に入居してきて、出て行ったのを見届けてきた。
好かれる人
その友人との話題に、「介護施設で好かれる人と嫌われる人」があった。友人曰く、介護施設でも好かれる人と嫌われる人はいるらしい。
「どんな人が好かれると思う?」
と聞かれた。
「認知症がすすんでいなくて、介護士さんやほかの入居者に手間や迷惑をかけない人かな~」
と答えた。
が、友人の答えはシンプルで、
「笑っている人」
とのことだった。
「介護施設に入ってくる人は、多かれ少なかれ認知症があったり、身体に不自由を抱えている。だから、多少のことでは嫌われる原因にはならないよ。」
とのことだった。確かにそうかもしれない。
「いつもニコニコしている人は、それだけで許されるし、介護していても悪い気はしないんだ。」
と言っていた。なるほど。
嫌われる人
「じゃあ逆に、どんな人が嫌われると思う?」
「認知症がすすんでいて、介護士さんやほかの入居者に手間や迷惑をかける人」というわけではないだろう。
「やっぱり実社会でも嫌われるような、粗暴だったり嫌な奴が嫌われるんじゃないの?」
友人は、
「まあ確かにそうなんだけど、すごく面白い傾向があるんだ」
と言った。
「自分の経験上、社会的に高い立場の人って、介護施設に入ると嫌われることが多いんだよね。」
友人の話によると、昔社会的に高い地位にいた人…例えば会社社長とか公務員の上の役職にいた人、元教員なんかに嫌われる人が多いとのこと。
「なんで嫌われるんだろ?」
自分のイメージだと、そういった人って確かに態度が偉そうなんだろうけど、お金も持っているだろうし立ち居振る舞いもしっかりしていただろうし、嫌われるイメージはなかった。
「介護している人間にとって一番悔しくてつらいのが、“お金を払っているんだからやってもらって当然、やるのが当然”っていう態度・言動なんだよね。」
「確かに仕事だしお金をもらっているわけだから、サービスを提供するのは当然。でも、介護はそれだけじゃないと思う。やっぱりある程度の信頼関係がないと頭ではわかっていても気持ちがついていかない。そこはわかってほしいんだよね。何かをしてほしいわけじゃなくて、わかってくれるだけでいいんだ。」
「自分はプロとしてお金をもらっている以上のこともしているつもり。それを評価してくれとは言わないけれども、“お前ら金もらってるんだからちゃんとやれ”っていう態度だと、一気にげんなりするし、その人のこと好きにはなれないよね。」
「で、そうした態度で接してくるって人、昔高い立場にいた人が驚くほど多いんだ。たぶん、自分の妻・夫・部下にいろいろしてもらっていたんだろうね。してもらうのが当然って人が多い。もちろんそうじゃない人もいるんだけどさ。」
なるほど。昔は高い地位にあったから、そういった態度をとっても周囲の人はそれを認めてくれた。でも、介護施設に入るとそんな肩書は全く役には立たないから、単純に嫌われるんだ。
「あと、ほかの入居者にも、“俺はお前らとは違う”みたいな態度や言動が多くなるんで、嫌われる。」
…人生では成功者と呼ばれる人たちなのかもしれなけれど、なんだか悲しいなあと思ってしまった。
嫌われる人の末路
「そういう人は、介護施設でどうなるの?」
「やっぱり介護士も人間だから、そういった人には必要以上のことはしなくなるし、無駄な会話もしなくなる。ほかの入居者とも仲良くなれない。あと、往々にして家族がらも嫌われていて、めったに面会に来てもらえない。」
現役時代に活躍するのは、豊かな老後を過ごすためにはいいことかもしれない。
でも、そこで自分の地位を人間としての地位と勘違いしてしまうと、地位を退いたときに切り替えができなくなって、悲しい老後を迎えてしまうのかもしれない。全く地位とは無縁な自分だけれども、そういった勘違いはしたくないものだなと思った。
「お前の日本語わからない」という年配者からのディスりは気にしないほうが良い
「君の日本語はよくわからないねえ…」
よく年配者が若者の文章が含まれた書類をチェックしているときにいるセリフに「日本語がわからない」というものがあります。自分はそれがすごく嫌いです。よく言われたというのもあるけれど、このよくわからない上から目線のディスり方が嫌いなのです。
確かに日本語の言い回しが変だったのでしょう。だったら、「ここが変だからこうしたほうがいいよ」って指摘すればいいだけなのに、どや顔で「なにこれ?お前の日本語変だよ」って「お前何様?」って思うんですよね。
大勢には影響しない
そうやってどや顔で指摘してくるオヤジって、大体「細かな言い回しを修正することしかとりえのない中年オヤジなんですよね。」そうやってディスることによって、自尊心を満たしているんだと思うのです。「ちゃんとした日本語の文章を書ける俺ってすごいよね」ってわけです。
若者に勝てるのが「正しい日本語」しかないっていうわけですよ。実際、そうやって指摘された内容って、「まあ、確かにそうなんです」が、大局には関係ないような細かいところだったりするんですよね。修正したところでそれほど変わらないっていうやつなんです。
だから、イチイチ真に受ける必要もないのですが、確かに会社の文章とかだと、言われた通りに修正したほうが良かったりする場合もあります。なぜなら、その文章を見るのが“日本語指摘オヤジ”のようなオヤジばかりの場合、どこで指摘されるかわからないのですよ。だから言うとおりにしておいたほうがいいということもあります。
でもね、大局に関係ない細かな指摘に時間かけるよりは、ある程度中身のわかる文章を素早く仕上げるほうが大事だったりしませんか?特に最近はそういう傾向が強いと思います。だから、日本語指摘オヤジの指摘に時間費やすことないよねって思った次第です。
それにしても自分の日本語変!
…ところで、この文章、サクッと書いてそのまま載せてみたのですが、いや本当に「日本語がおかしい」ですな。まあ、指摘したくなる気持ちもわかるんですが、それをドヤ顔で指摘するようになると、かっこ悪いし、オヤジになった証拠ですよ~というお話でした。