アン・タブチのブログ

色々と現状を変えたいと思っているひとです

おじいちゃん・おばあちゃんとの想い出がなくなっていくのかもしれない

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先日、ふと「自分は孫の顔を見れるのかなあ・・・」と思いました。

 

私は30代半ばで結婚しました。すぐに子宝に恵まれ、今は二人の子どもがいます。

私の両親は60歳になったばかりで、まだどちらも元気です。

 

なぜなら、私の両親は20代半ばで結婚し、私が生まれました。

だから、今60歳というわけです。

 

ですが、私は30代半ばで子どもが生まれました。

子どもが30代半ばで結婚したとすると、そのとき私は70歳。

 

「・・・生きてるんかいな。」

 

と思うわけです。

 

もし、生きていたとしても、もう何もわからない状態だったり、体が動かない可能性もあります。

 

もし70歳で元気だったとしても、子どもが記憶に残るころまで生きられないかもしれません。

 

 

そうなると、私が孫の記憶に残ることはないのです。

 

今まで、自分が結婚するのが遅いと思ったこともなく、

 

「まあ、このくらいの結婚が普通だよね。」

 

と思っていたわけですが、昔の基準に比べたられっきとした”晩婚”なわけです。

 

こうして晩婚が進んでいくと、子どもが”おじいちゃん”や”おばあちゃん”と過ごす時間というのはどんどん少なくなっていくんでしょうね。

 

自分はまだ、両親が早くに結婚したから、自分の両親に孫の顔を見せることができましたが、晩婚の世代交代が続くとそうはいかなくなるというわけです。

 

いずれは、おじいちゃんとおばんちゃんとの思い出を作れる子どもが少なくなってくるのかもしれません。

 

晩婚化が一概に悪いとは思っていませんが、なんだかそれはさびしいなと思ったわけです。

 

 

トイレの神様

トイレの神様

 

 

うれしかった言葉。「実家に預けるより旦那に預けたほうが楽」

先日、自分が休みの日に、嫁さんに子どもの面倒をみるように頼まれました。

 

嫁「明日、ちょっと友達とお茶したいから、子供の面倒見ててくれない?」

私「どのくらい?」

嫁「3時間くらいかなあ」

 

私たち夫婦には二人の子供がいて、1歳と5歳。

 

子どもの面倒をみたことがない人にはわからないかもしれないけれど、1歳の子どもを含む二人の子どもの面倒をみることって、結構大変なことです。

 

まあ、毎日嫁さんはそれをやっているのですが、旦那である私が同じことをするのは、ある意味もっと大変なことなのです。

 

子どもは二人ともママっこになっていて、何かあると「ママ~ママ~」なわけです。楽しく遊んでいるときはいいのだけれど、なにかトラブルがあるとママを探し、泣き叫び手が付けられなくなります。

 

そんなこともあり、休みの日にそれをやると、疲労困憊なわけです。

 

 

ですが、休みの日に嫁さんにリフレッシュをしてもらうというは大事なことで、できる限りやるようにはしています。それをやっておくと、嫁さんの精神状態も安定するので、後々楽になるんですよね。

 

で、その日は子供二人と3時間過ごしたわけです。そのことをいろいろ話していた時に、何の流れだったかわからないけれど、「実家に預けるのと旦那に預けるのはどちらが楽か」という話になった。

 

私「実家に預けたほうが気分が楽だったりしないの?」

嫁「いや。断然旦那のほうが楽だよ。」

 

そういわれたのが、なんだかうれしかった。

子どもを安心して預けられると認められているわけで、実家よりも信頼されているわけで。

 

そんな話を、会社の飲み会の席で話したら、

 

同僚「それは嫁にコントロールされているだけだわ」

 

と言われました。

まあ、その通りですな。

 

 

でも、たとえそうだったとしても、子どもの面倒をみれる父親であることは、自分にとってうれしいことなんだよなあ・・・

 

 

男の子を伸ばす父親は、ここが違う! (扶桑社文庫)

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勤務時間・勤務日数が選べるという制度、よくないですか?

仕事に集中できるタイミング

仕事に集中できるタイミングってありますよね。1日でも1年でも10年単位でも…それぞれ人によってあると思うのですよ。

 

1日という単位でみたときには、「朝のほうが頭が冴えて集中できる!」って人もいれば、「夜のほうが静かで集中できる!」って人もいます。だから、人によって“集中して働きたい時間”も変わってきますよね。

 

フレックスタイム

それに対応しているのが、『フレックスタイム』という制度です。コアタイムと呼ばれる時間に出勤し、合計勤務時間が規定に達していればよいという制度です。

 

たとえば、コアタイムが10時~14時で勤務時間が8時間だとすると、6時~14時勤務でもいいし、10時~18時勤務でもいいということです。※休憩時間は無視しました

 

1日という単位で見れば、『フレックスタイム』を活用すれば、働く時間を選択できるというわけです。

 

でも、1年・10年単位でみると、自由に働く時間を選択するという制度が少なくなってくるのですよねえ…

 

1年単位

1年単位で働く時間を自由に選択できると憂い制度は、あまりないような気がします。

 

例えば、趣味がスノボで、冬はできるだけ勤務時間を短くしたいし・勤務日数も減らしたいと思っている会社員がいるとします。

 

冬の勤務時間は6時間で、月の勤務日数が15日。逆に夏は勤務時間を10時間にして、月の勤務日数を25日にするということが出来るのであれば、その会社員は嬉しいんじゃないかなと思うわけです。

 

もしかすると、やる気が出るかもしれないし・会社への忠誠心が高くなって会社を辞めにくくなるかもしれない。

 

10年単位

では、10年単位ではどのようなときに働く時間を選択する機会があるでしょうか。

例えば、

 

  • 入社したてのころは慣れるために週5日・8時間勤務
  • 脂が乗ってきた3年目からは週6日・10時間勤務
  • 結婚して子どもが生まれたので週4日・6時間勤務
  • 子どもが大きくなってきたから週5日・8時間勤務に戻す
  • 最後は定年間近でスピードを落としたいので週3日・4時間勤務

 

というのはどうでしょう?人生設計が立てやすくなるし、嬉しいと思いませんか?


意外にこういう制度ってないんですよねえ…

もちろん、会社には繁忙期があり、社員が各個人で好き勝手に勤務時間を決めると、会社としては困ることも多いかもしれない。

 

でも、うまく管理して実現すれば、社員としては長く働ける会社だと思うだろうし、定着率が上がると思います。メリットも多いのではないでしょうか。

 

ちなみに、この制度をつかって勤務時間・日数を減らした場合は、もちろん給与も減る仕組み。逆に増えた場合は給与が上がります。そうじゃないと不公平になっちゃいますからね。

 

あと懸念されるのは、勤務日数と時間を管理するオペレーションの増大ですが、これは最初からそれに適したITシステム用意すればいいかと思います。

 

産休・育休との併用

よく、産休・育休を取ると、他の社員から「不公平」という声が上がるということがあります。

 

確かに、子どもを産んだからという理由だけで、特定の社員が優遇されるのでは、独身者や子どもを持たない既婚者から不満があがるのは当然だと思います。

 

だから、このような制度で『全員が一時的に勤務時間を減らせる』という仕組みがあればいいと思います。

 

どうでしょう?

このような制度がどの会社でもできるとは思わないけど、できそうな会社もあると思う。所謂、「採用労働制」を用いている会社は、工夫と管理するシステムさえあれば出来るのではないかと思う。

 

経営者としては社員の労働力を計算しにくくなるかもしれないけれど、メリットもあると思うのです。とくに社員が定着してくれないという会社によさそうだと思います。

 

こんな制度がある会社で働きたい!と思っています。

 

 

お金と時間と場所に縛られず、僕らは自由に働くことができる。

お金と時間と場所に縛られず、僕らは自由に働くことができる。

 

 

「自分の会社の常識=世間の常識」と信じている人がいる

会社もいろいろ、常識もいろいろ

自分は人より少しだけ多く転職している。また、他の会社に滞在することもあるので複数の職場を経験している。いろいろな職場に行って思うことは、「会社もいろいろ、常識もいろいろ」ということだ。

 

ある会社の常識が違う会社の非常識になり、前の会社の常識を持って転職すると、他の会社では非常識な人になってしまう。

 

結局、その常識が本当に常識かどうかもよくわからなくなる。常識というのは、ある限られた世界でのものなのだ。それを覚えておかないと、転職したときに痛い目にあう。

 

たとえば冠婚葬祭の常識

たとえば、冠婚葬祭。ある会社はドライな会社で、冠婚葬祭での社員間のお金のやり取りはほとんどなかった。結婚したときに、社員で数千円集めてプレゼントを贈る程度。無駄なやり取りがないのでおおむね好評だった。

 

しかし、ある会社は冠婚葬祭はもちろん、異動・転勤などにもお金をやり取りする会社だった。そんな会社だから、他の社員の動向を逐一チェックしてなければいけない。もし、その情報を得るのが遅れると、お金を渡せない=非常識な社員となってしまうのだ。

 

冠婚葬祭のやり取りがほとんどない会社に新卒で入り長く勤務していたとしたら、やり取りが多い会社に入ると違和感を感じるだろう。「そこまでやらなくても・・・」と思うかもしれない。

 

しかし、そこは新しく入った会社の常識に従わなくてはならない。それが所謂「郷に入っては郷に従え」ということなのだ。

 

必ずいるタイプの人

確かに、転職者は新しい職場に馴染むために、ある程度の努力は必要だ。少し「おかしいな…」と思ったとしても、そこのルールに従わなくてはいけない。

 

ただ、そんな転職者にとって面倒なタイプの人がいる。転職して新しい職場に行くと必ずいるのだ。それは自分の経験上、ほぼ100%に近い。

 

それはどんな人かというと、「自分の会社の常識=世間の常識」と信じている人だ。

 

自分の会社の常識=世間の常識

そのタイプの人は、その職場で長く働いている。長く働いているのだから、当たり前のようにその職場の仕事に詳しく、社内人脈もある。

 

仕事ができるかというとそれはどちらともいえない。できる人もいれば、できない人もいる。ただ、共通しているのは、仕事を自分でコントロールできているということだ。それなりの役職にもなっているので、権限や裁量を認められている。

 

その人は、自分の「会社の常識=世間の常識」と信じている。だから、「自分の会社の常識を守れない人=社会人としてなってない人」と判断する。

 

その常識は、世間の常識とイコールかもしれない。ただ、外の世界から来た人から見ると、ちょっと変わっていたり、非効率だったりすることもあるのに。

 

仕事のやり方も

仕事のやり方でも一緒です。その人は、現在の仕事のやり方が一番常識的だと思っている。だから、新人や転職者が入ってきたら、その仕事のやり方を強要する。

 

その社内でしか通用しない仕事のやり方や常識を、「社会の常識」、「社会人として当たり前のこと」というように信じている。そして、異なる考え方を理解しようとはしない。

 

そして、「自分は仕事ができ、他のやつは使えない。」「新しく入ってきたやつは使えない」と思っているのか、尊大な態度で他の人に指示をしたり、注意をする。

 

そうなると、新人や転職者はうんざりしてしまうわけです。

 

新しい血を受け入れる器

最初にも書いたとおり、新人や転職者はある程度、自分が働き始めた会社の常識に従う必要がある。それが例えおかしくて非効率だったとしても。

 

しかし、その常識を絶対的な常識だと信じ、それに従わない新入社員や転職者を「できない」と判断する先輩や上司は、見識が狭いといわざるを得ない。そしてそれは、器の小ささを露呈しているのである。

 

せっかく新しい血が入ってきたのだから、その常識の違いを一度は受け入れるくらいの器の大きさがほしい。

 

「自社の常識はもしかすると世間の非常識かもしれない。」と一度は考えてみることが必要なのではないか。

 

そうすれば、態度の気に食わない新入社員や転職者にも優しくなれるかもしれない。

 

 

日本でいちばん社員満足度が高い会社の非常識な働き方

日本でいちばん社員満足度が高い会社の非常識な働き方

 

 

 

羽毛製品はケチらないほうがいい

わたしケチです

私は基本的に“ケチ”です。金欠のせいもありますが、基本的に高いものはあまり買いたくなく、安いものを買ったほうが落ち着くたちです。なんか高額のものを買うと、罪悪感みたいなものが生まれるんですよねえ…

 

ただ、そんなけちな私でも、ケチらないほうがいいと経験上理解しているものはあります。そのひとつが“羽毛製品です”。羽毛製品はケチるとろくなことがないです。

 

羽毛の質は価格に比例

羽毛布団にダウンジャケット、羽毛製品といえばこの二つです。経験上、この二つの製品でケチって安いものを買ってもいいことはありませんでした。

 

羽毛製品の安いものは、“重い”か“薄い”のどちらかです。購入したあとに後悔することになります。

 

価格の安い羽毛布団にありがちなのが、重いということです。純粋なダウンだけではなく、それ以外のものが使われていると重くなります。

 

羽毛布団の一番の売りは軽さなのに、重かったらまったく意味がありませんよね。ケチるとそういうことになります。

 

また、安物の羽毛布団にありがちなのが薄いということ。価格を抑えるために羽毛の量を減らすというわけです。羽毛布団ならぬ不毛布団で、その場合暖かさが減少してしまいます。

 

ダウンジャケットはそれが顕著です。安くて軽いからいいなと思って買うと、実はあまりダウンが入っていなくて、意外に寒いということがよくありました。

 

さらに、ダウンの量が少ないので、着ているうちにダウンが偏ったりしたこともありました。

 

ケチらないほうがいいです

このように、羽毛製品に関してはケチるとろくなことはありません。ケチらずにそれなりの値段のものを買ったほうがいいでしょう。

 

世の中にはケチっていいものとだめなものがあります。羽毛製品はまさにそれだと思います。どうしてもケチりたい人は、そもそも羽毛製品は買うべきじゃないでしょう。

 

 

 

 

主張と俯瞰

主張をぶつけたい

このブログでは、自分が思っていることをストレートに書くようにしている。そのために匿名で書いている。実名を出すと、どうしても読む人を想像してしまうからだ。普段は思っていても言えない“主張”を書きたいと思って、このブログをはじめた。

 

しかし、いざはじめてみると、思ったままの“主張”を書くのは難しいことだと実感した。「ここでは素直に書いていいのだ。」と思って書いているのだが、なかなかうまくいかない。なぜなら、一度書いた文章を再度読み直し“俯瞰”してみると、その“主張”がいかに独りよがりで狭い視点のものかを実感させられるからだ。

 

書いているときは「絶対こうだ!」と思っているのだが、読み返してみると「あれ?こうじゃないかな。」「これは人によっては誤解するだろうな。」などと考えてしまう。それが正しいかどうかはわからないのだけれど、そのまま公開するのをためらってしまい、書き直すことがよくある。

 

ブロガーってすごいですね

世の中の“ブロガー”と呼ばれる人たちはすごいと思う。自分の主張・意見をずばりと書いている。それが時として炎上したり、批判されたりするのだが、それでもかまわずにブログを続けているのである。精神力がないと出来ないことだと思う。

 

そんな人たちも、やはり“俯瞰”して、書き直しているのだろうか。“プロ”と頭につくブロガーは、自分の主張の微調整はしても、本筋は曲げていないように思える。たとえそれが炎上・批判される内容でも、主張することは主張しているのではないか。だから、その記事は賛否両論だけれども面白く、人を集めることができる文章になるのだろう。

 

“俯瞰”するのは間違いではない。でもその結果、公開して炎上・批判されることを恐れて主張を曲げてしまうのが自分だ。だから、呼んでいて面白くない文章になるのだろう。無難な文章は誰も傷つけないが、誰も惹きつけない。

 

面白い文章を書きたければ、炎上・批判を恐れずに自分の主張を書けばいいのだ。それがブログという場なのだから。と、言葉で書くのは簡単だが、実行するのは難しい。たとえそれが匿名だとしても。それを実行するには、自信がなければできないのではないか。あと、才能もある。そう考えると、自分は文才がないだけかもしれない。

 

言いたいこと

なんだかよくわからないエントリーになったけれど、言いたいことは、たとえ匿名のブログでもいいたいことを主張するのは難しくて、ついつい気を使って書いてしまっているなとうこと。これってやっぱり現実社会からの一種の病なんですよね。波風立たないように生きてきたのだから、ネットとはいえ急にそれを覆すというのは難しいのです。

 

 

ブログ飯 個性を収入に変える生き方

ブログ飯 個性を収入に変える生き方

 

 

男性の「仕事」の価値が低下しているのではないか

 

最近気になっていることがある。それは、男性の「仕事」の価値が低下しているのではないかということについてだ。

 

平均年収は下がり続けており、安定雇用もままならない。成果主義が広がり年功序列もなくなってきた。男性は昔と同じ仕事をしているのに、その価値が上がらない・評価されない、そんなジレンマを抱えているように感じる。

 

男性が一家の大黒柱だった時代

一昔前は、男は「一家の大黒柱」というのが常識だった。私の親もそんな時代の人で、父親が働き、母親は専業主婦だった。父親が稼ぎ・母親は家事をする。それが当たり前だった。

 

父親はいろいろ欠点があり、失敗もした。しかし、「一家の大黒柱」である父親は、家族にとって大事な存在だった。。なんといっても、自分達の食いっぷちを稼いできてくれる父親を尊敬していたのである。

 

大学受験と就職難

そんな子ども時代を過ごした私は、大学受験をする。子どものときから親に言われていたのは、「とにかく大学に行けば、就職できるから。」ということだ。

 

「そうか。まずは大学に入ればいいのだ。」

 

一生懸命勉強して、大学に入学した。これで就職できるなと思っていた矢先、景気が悪くなり、就職氷河期が訪れた。大学を卒業しても就職がない時代になった。

 

思い描いていたような大企業には就職できない時代。希望通りの就職先を見つけるのは困難だった。それでもなんとか就職先を見つけた。

 

そして働き始めた

大学を卒業して働き始めた。

 

一生懸命働いたが、仕事をするというのは大変だ。会社によっては、残業地獄・パワハラ当たり前・給料が安いなど、いろいろな問題がある。

 

大企業ではないのだから、当たり前だ。いや、大企業ですら倒産・リストラがある時代になってしまった。

 

植えつけられた価値観

自分が子どものときに植え付けられた価値観。それは、大学を卒業して→ある程度の規模の会社に入って→給料が上がっていき→結婚→子どもが生まれる→ひとつの会社を退職→老後というものだった。

 

自分も自然とそのようなパターンをたどってきた。現在は結婚して、専業主婦の妻と二人の子どもがいる。

 

親から「こうしろ!」と教わったものではないが、親の生き様をみて自然と植えつけられた価値観だ。

 

女性が働かなければならない時代

しかし、時代は変わってしまい、仕事をしても給料は上がらない(どころか下がる)、会社の経営が不安定になる、リストラにおびえるようになってしまった。

 

そんな時代に、政府や社会は、「だったら女性が働けばいい」というようになった。つまり、「男性の稼ぎだけでは、生活できないでしょ?だったら女性に助けてもらいなさい。」というわけだ。

 

そんなことを強いられる女性も気の毒だと思うのだが、女性は家事・子育てをしながら働かなければいけなくなった。

 

その代わり、男性も家事・子育てを積極的にやりなさい。そんな風潮が強まり、“イクメン”という言葉が生まれた。

 

高まる女性の仕事の価値

そんな傾向の中、女性の仕事の価値は高まり、存在意義は増すばかりだ。家事をこなし・子育てをしながら、仕事もする。

 

家事の大変さが世の中に広まり、「主婦の家事労働の価値は年間1000万円」といわれる。「子育てはホントに大変なんだ。」ということも認知されてきた。

 

一昔の専業主婦が行ってきた「家事」は、「当たり前のこと」ではなく「大変なこと」なんだと、価値が見直されてきている。

 

それに加え、仕事もしちゃうわけだから、女性の価値はうなぎのぼりだ。

 

下がり続ける男性の価値

一方の男性はどうだろう。上で書いたように、男性の仕事の価値は、社会でも家庭でも下がりっぱなしだ。社会的には、賃金が上がらず・雇用も少なくなってきて、男性の仕事は減ってきている。それに従い、家庭内でも存在意義は薄くなってきている。

 

昔のサラリーマンの働きっぷりよりも、今のサラリーマンの働きが著しく劣っているとは思えない。同じ仕事をしているのにもかかわらず、価値が低下してきているのである。

 

さらには、女性が仕事をしなければいけないようになり、家事への参加も求められている。そこで、慣れない家事や育児もがんばってみるが、なかなかうまくいかず、妻から認めてもらえるような働きはなかなかできないものだ。

 

最近の風潮により、男性が家事をやることが“当たり前”になってしまい、たとえうまくやっていたとしてもそれが男性の価値向上につながることが少なくなってきてしまった。男性が家事・育児をするのは当たり前になったのだ。

 

男性はがんばっているのに、認められない時代になってきた。

 

変えられない価値観

私はこの流れに反対しているわけではない。子育ても楽しいし、家事だってできるかぎりしたいと思っている。“イクメン”と呼ばれたい。けども、自分の中にある価値観との矛盾に葛藤することもある。

 

自分の今の給料ではギリギリだし、いつかは嫁さんに働いてもらわなければいけなくなるだろう。それは仕方のないことだというのはわかっている。でも、どこかでその現実を悔しく感じている。

 

時代は変わっているのに、変えられない価値観。父親である自分が、家族を養えるだけのお金を稼ぎたい。妻に働くことを強要したくない。そんな価値観が自分を苦しめている。

 

ちっぽけなプライド

それは本当にちっぽけなプライドだ。「だったら、がんばって仕事すりゃーいいじゃん。もっと稼げばいいじゃん」と思われるかもしれない。けれども、それがなかなかうまくできない人もいるということです。

 

妻に働いてもらわないと家族を維持できない自分。そんな自分に自分で価値を見出せなくなってきている。それでいいのかと。

 

男性の「仕事」の価値

仕事をして、お金を稼ぐというのはホントに大変なことだ。それを続けているだけでも存在意義はあるし、価値はあるはずだ。

 

それなのに、男性の仕事の価値が下がっているのではないか。

 

女性が家事・育児・仕事を両立させているのであれば本当にすごいと思うし、それは尊敬する。女性の価値をもっと認めなければという意見も賛成だ。

 

ただ、男性の仕事の価値も少しは認めてもらいたい。ただ働き続けているということだって、立派で大事なことなのだと。

 

それを認めてもらえるだけでちょっとがんばれるほど、男性は単純な生き物なのだから。

 

 

 

お茶汲みは女の仕事?

お茶汲みしています

サラリーマンを続けて20年近くになりますが、いまだにお茶汲みをしています。下っ端の仕事ですね。下っ端なので仕方がありません。

 

こんなおっさんがお茶を出すわけですから、出される「お客さん~すいません!」という感じです。やっぱり、きれいなお姉さんがお茶を出してくれたほうがうれしいですよね。

 

と書いたらセクハラ

と書いたり言ったりすると、最近はまずいですよね。「お茶は女性が出したほうがいい」なんて書くと、“セクハラ”とされてしまいます。怖い怖い。

 

ところで私自身は、お茶は誰が出してもいいと思います。下っ端が出すというのは基本かもしれませんが、男性だろうが女性だろうがどちらでもいいと思いますし、下っ端だけじゃなくと上役が出してもいいんじゃなかろうかと思います。

 

出されるほうも、上役の人が出してくれるとうれしいんじゃないですかね。肝心なのは、「イヤイヤ」やらされている空気がでていると、出されるほうは誰が出してもうれしくないのではないかと思います。

 

気持ちよくお茶を出せるのであれば、老若男女関係ないですよ。

 

お客へのお茶

てなわけで、お客様が着たらお茶を出すのは当たり前ですし、出さない会社のほうが少ないのではないかと思います。お客様へのお茶だしであれば、嫌がる社員も少ないと思います。

 

上司へのお茶

問題なのは、社内のお茶汲み。上司が部下にお茶を入れさせるというパターンですね。普通の会社にお勤めの方なら、「いまどきそんな会社ねえよ。」と思われるかもしれませんが、実は結構あるんですよ。そんな会社。

 

中小企業では、部長クラスに事務の女の子が、朝一でお茶を入れなければいけないというルールがあったりします。とっても昭和な文化で、大企業なら「パワハラ・セクハラアウト!」ですが、小さな会社ではそんな仕組みが残っていたりするのです。

 

私が勤めていた会社でもそんなルールがありました。事務の女性社員達からは、反対どころか呆れられていました。「反対するのも面倒だから適当にいれているよ。」とのこと。ただ、「むかついたときは雑巾の絞り汁入れるかも(笑)」とも言っていました。

 

お茶くらい自分でいれろよ

若手社員も白い目で見ていました。「お茶も自分で入れれないのかよ。」と。家で奥さんにお茶を入れてもらうのと同じ感覚なのでしょうね。

 

実はその会社では一回、その制度をなくしてはどうかという議論が沸き起こったことがありました。でも上司の意見は「ノー」。「それも、女性事務社員の仕事のひとつだろ!」という意見。すごい時代感覚です。

 

どうですか?

皆さんの会社ではどうですか?もしかしてお茶を入れてもらっている人もいるかもしれませんね。そんな人へ。喜んでやってくれる部下もいるかもしれませんが、呆れている部下もいるかもしれませんよ。お茶は自分で入れましょ。

 

 

 

お茶のいれ方とマナー (これでOK!)

お茶のいれ方とマナー (これでOK!)

 

 

あったらいいのに「簡易クリーニングサービス」

 

「家事は2万円で外注しろ」が話題になっています。 


「家事は2万で外注しろ」議論白熱 | web R25

 

自分の意見としては、人それぞれなので使いたい人は使えばいいと思います。そんな議論をふまえて、あったらいいのになと思うサービスがあります。それは、「簡易クリーニング」です。もうあるのかな?

ホント家事って大変

ホント、家事は大変ですよね。うちの場合、8~9割以上は嫁さんがやっているのですが、私も出来る限り手伝うようにしています。食後の茶碗洗い・風呂掃除・トイレ掃除なんかは出来る限りやるようにしています。一方、食事作りはほとんど嫁さん任せです。

 

子育てをしながら家事をするってホント大変で、嫁さんはすごいなと思います。
うちの嫁さんは専業主婦ですが、子どもがいたらそれでも大変そうです。これが、共働きだったらもっと大変でしょう。うちは地方なので通勤にそれほど時間がかかりませんが、都会だともっともっと大変でしょう。私は19時から20時くらいには帰宅できているのですが、旦那さんの帰宅する時間が遅い家庭はもっともっともっとたいへんでしょう。

ホント洗濯って大変

そんな家事の中でも大きな割合を占めているのが、“洗濯”ではないでしょうか。全自動洗濯機があるとはいえ、洗濯はまだまだ手間のかかる家事のひとつです。ぐちゃぐちゃの洗濯物を仕分けして、ポケットを確認し、洗濯機に入れます。終わったら干して、たたむという作業工程があります。

 

天気の悪い日は洗濯物が乾かないので、時間がかかります。子どもが多い家庭では、毎日洗濯しなければ追いつかなくなります。そのような洗濯という家事を代行してもらえるとなれば、それなりの需要があるのではないでしょうか。

 

議論になっている外注でお願いするという方法は、知らない人を家に入れなければなりません。これが心理的に嫌という意見もたくさん見受けられました。確かに家に入ってもらって洗濯物をしてもらうのは、私もちょっと・・・です。気軽には頼めません。

「簡易クリーニング」とは

ですから、クリーニングの簡易版でいいので、持ち込んでごく一般家庭がやる程度の洗濯をしてくれるサービスがあればいいのになと思っていました。

 

既存のクリーニングサービスは、過剰なんですよね。きれいに漂白されて・アイロンがけされて・パッケージングされます。これは選択の頻度が少なく、特別で、高級な衣服にはいいサービスなのですが、日常着る服にはそこまでやる必要はありません。

 

それらは、洗濯機にぶち込んで、乾燥機をかけて、適当にたたんでくれれば事が済みます。一枚一枚ビニールでパッケージングする必要もありません。紙袋にえいっと入れてくれればいいのです。それを格安の料金でやってくれたらいいのになと思います。

 

ある程度の服の数があるならば、それらのクリーニングはすぐにできなくても大丈夫です。目安としては一週間に一回くらい持ち込んで、そのときに前回の服をまとめて持って帰るくらいでいいのではないでしょうか。クリーニング側としては一週間の猶予があるわけです。

採算取れないのかな

そのサービスをやるにあたり、どのくらいのコストがかかり、どのくらいの料金設定になるのでしょうか。やはり、簡易とはいえ結構費用がかかるのでしょうかね。

 

今までこのサービスがないのは、需要がないのか採算が取れないのか。どちらかはわかりませんが、どこかやって欲しいな思うわけです。

家事は手抜きできるならしたほうがいい

家事の大変さは、やっている人しかわからないものです。家事はどうしてもやらなければいけないものではないし、需要と供給・便益と採算がバランスが取れてサービスが生まれるなら、それを使ったほうがいいとおもいます。いつもではなくとも、たまに使うだけでも楽になるかと思います。

 

 

 

 

とある起業家の本音

先日、知り合いの“起業家”と飲む機会があった。その起業家は、5年前に起業した。起業した年齢は25歳。会社は色々あったようだが、経営は順調だ。

 

ベンチャーコンペなどでも受賞し、将来を期待されるベンチャー企業といえる。 彼の会社のホームページを見た。ベンチャーならではの自由な雰囲気・将来への希望にあふれていた。

 

「社員は家族です。」

 

という文言が書かれていて、社内のイベントも活発に行われているようだった。「働いてみたいな」と思わせる会社だった。とても魅力的な会社なのだ。

 

そんな会社の社長である彼は、さぞかし自分の会社にも満足しているのだろうと思っていた。だが、実際に会ってみるとそうではなかった。

 

社員の愚痴ばかり

 

彼の口から出るのは、自分の会社の社員の愚痴ばかりだった。 一番印象的だったのが、こんな愚痴だった。

 

「社員の全員が“自分”だったら、もっと早く大きな会社になるのに。」

 

社員に能力がなく、やる気もない。仕事を任せられる右腕もいない。だから、全社員が優秀な自分だったら、会社はもっとよくなるという話らしい。自分の会社のことは自慢する一方、自社の社員についてはひどい言い様だった。

 

話す前は魅力的な会社だと思っていたけれど、そんな愚痴を永遠と聞かされると、「社員がかわいそうだな。」と思えてきた。社員には直接そんなことは言っていないようだが、事あることに叱責しているらしい。「もっとやる気を出せ。」「もっと会社のために頑張れ」と。 

 

社員に自分と同じパフォーマンスを求めている

 

まず問題だなと思ったのは、社員に自分と同じパフォーマンスを求めているということだ。確かに、彼は優秀なのだろう。ゼロから事業を生み出し、会社を成長させてきた。

 

最初は自分一人だけ。そして、数人の社員を雇い、現在では十数人にまで増やしてきたのだ。普通の人にはなかなかできないことだ。 そんな彼と同じ成果を出せるサラリーマンなんて、そこら辺には、なかなかいないんじゃないか。いたとしても、将来性はあるが、リスクもある設立5年目のベンチャー企業には入社してくれないかもしれない。

 

その辺のことを無視して、自分が採用したからには優秀に違いないと思っているのだ。 求める水準が高いのだから、社員の働きぶりに不満を持つのは当然だろう。ついついイライラして叱責してしまうのは当然だ。いつも怒られてばかりだと、社員も萎縮してしまうに違いない。

 

そうなると、無難な仕事ぶりになるのは当然だ。 求める水準に達する社員がいないから、なかなか仕事を任せられない。だから、管理職になる人材が育たないし、自分の右腕も育たない。

 

その結果、彼はいつも急がしい。会社の中で一番働いている。さらに彼の求める水準は高くなり、その水準に到達する社員は現れない。

 

「社員のビジョン=会社のビジョン」

 

次に問題なのは、「社員のビジョン=会社のビジョン」だと思っていることだ。社員は、自分と同じように会社のことを第一に考えていると思っているのだ。

 

彼は、「なぜ社員が自分と同じように夜中まで働かないのか」ということを話していた。会社は成長期で、働けば働くだけ売上と利益が上がるらしい。それなのに社員は夜中まで働かず、それなりの時間に帰ってしまうのだそうだ。彼にとって、それが不満らしい。

 

「会社を成長させ、自分も成長する。」と採用試験の面接のときに言っていたじゃないかと。「それなのに、なぜ会社のために全力で頑張らないのだ。」と怒っていた。面接のとき、言っていたじゃないかと。

 

面接の言葉を全面的に信じている彼の素直さはすばらしいと思うのだけど、ちょっと馬鹿正直すぎる。そんなの採用して欲しいから言っている場合もあるだろう。本音では、「会社が成長すればラッキーだな。」とか「ここなら偉くなれるかも。」程度ということもあるだろう。

 

そこまで考えずに、社員を信じている。 …だが、結果的には社員が信じられなくなっている。

 

第二成長には、ほどほどくらいがちょうどいい

 

一人で事業を立ち上げるのは、知力・体力・勇気・運、すべてにおいて優秀じゃないとできないことだ。優秀な彼だからこそできたことなのだろう。けれど、会社を大きくするという局面では、優秀すぎるのはマイナスになることもある。

 

彼のように優秀な起業家が、自分と同じ働きを社員に求めても、誰もついていけない。 そう考えると、起業するのは優秀な人じゃないといけないけど、会社を成長させるには、ほどほどの能力とほどほどのやる気をもったサラリーマン社長くらいがちょうどいいのかもしれない。

 

 

起業家 (幻冬舎文庫)

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